レポート集~日本政治史~西園寺公望

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日本政治史~西園寺公望

西園寺公望の政治史上の功罪

西園寺公望は、1849年(嘉永2年)10月23日、京都の公家、徳大寺家の次男として生まれ、4歳のとき西園寺家を継ぐ。1870 年 (明治3年) よりパリに留学、ソルボンヌ大学に入り法学者アコラスに師事した。このとき学んだ自由主義思想は、80 年に帰国してからも強い指針となり、社会や民衆の進歩を図るために教育と文化を重視した。明治法律学校の創設を後押し、81 年には中江兆民,松田正久らと東洋自由新聞を発刊して、社長兼主筆となり自由民権を唱えた。しかし、天皇の内勅により、やむなく辞職することとなる。

翌82年、伊藤博文の憲法調査に随行してヨーロッパに渡り、皇室制度の調査を行った。帰国後は、伊藤と協力して近代的国家体制の整備にあたる。日清戦争中から伊藤の第 2 次、第 3 次内閣での文相となり,世界主義の教育方針を唱えた。これは、産業社会の発展に対処して、上下のみならず、対等の関係を尊重する新道徳をおこすべきだとするものであった。このように、自由主義の発展に尽力し、伊藤と伴に近代的国家体制の礎を築いた点は西園寺の功績として認められる。

一方、総裁・首相としての西園寺は、力の無さが目立ってしまう。1900 年の伊藤の立憲政友会創立に参画すると、伊藤の西園寺に対する信頼はますます高まり、病気の際には臨時首相を務めさせた。03 年に伊藤が山県有朋らの策謀で枢密院議長にまつりこまれると,第 2 代政友会総裁に就任する。日露戦争中の政局を安定させるために、桂太郎と政友会に交わされた約束により、政友会総裁の西園寺公望が第12代内閣総理大臣に任命された。西園寺は貴族院議員を入閣させるなどして、政党政治の実現を目指して努力したが、鉄道国有化や第3次日韓協約・日露協約・日仏協約の締結などでは、山縣有朋ら元老や桂の言いなりとなって政策を実行した。さらに、08 年の総選挙では政友会が絶対多数を占めたものの,山縣の財政政策の不備と社会主義者の取締を問題視する上奏であっさりと辞職してしまう。再び、桂が内閣総理大臣に就くと、大逆事件に際して責任追及を免れようようと、西園寺への再度の政権譲渡を約束した。11 年に第 2 次西園寺内閣が誕生する。しかし、伊藤博文が暗殺されると元老間の権力均衡が崩れ、山縣有朋の発言力が増大した。西園寺は、翌 12 年末には陸軍の倒閣策謀で辞任してしまう。こうして、第3次桂内閣が生まれるが、西園寺と桂が交互に政権を担当した1901年(明治34年)から1913年(大正2年)を「桂園時代」という。

桂園時代は、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙が、いずれも任期満了に伴うものであったことなどから、政治的に安定した時期であったとも言われる。しかし、政権交代は出来レースであったし、西園寺内閣は山縣派や桂の意向を軽視できずに、結局は軍部に勢力が傾いてしまった。政権に執着せず、政党政治を堅固なものに出来なかった事は、太平洋戦争につながる軍部の独裁を招くことになった。ここに西園寺の失敗がある。

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