レポート集~外交史~太平洋戦争開戦の過程

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外交史レポート

太平洋戦争開戦の過程

満州事変が日中戦争へ発展し、太平洋戦争が開戦する過程における日本外交について述べる。
満州事変は、中国の提訴を受けて国際連盟で取り上げられ、リットン調査団が派遣された。リットン調査団は、報告書で,満州事変における関東軍の行動を自衛とは認めず,満州国の建国も満州住民による自発的なものとは認めなかった。1933年2月、この報告書にもとづいて日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案が国際連盟臨時総会で可決されると,日本は3月に国際連盟から脱退した

このごろ、日中間の紛争や軍縮の議論に対して、陸海軍の軍人や右翼では、国家改造運動が高まっていた。そして、後にテロやクーデターが起き、政党内閣は崩壊する。36年2月26日、陸軍皇道派の青年将校が多数の兵を動員して首相官邸や警視庁などを襲撃した2・26事件を発端に、陸海軍の発言力は飛躍的に高まった。こうして、日本は総力戦体制へと向かう。広田弘毅内閣は,36年8月「国策の基準」を策定し,ソ連の脅威排除・南方への進出・日満中3国提携の実現などの方針を掲げた。

日中戦争は37年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた日本軍が、何者かから射撃を加えられたことで始まった日中両軍の軍事衝突が発端になった。

この軍事衝突を巡って停戦への話し合いが始まり、局地紛争として処理されるに見えたが、この時日本陸軍の内部には強硬論が有力になり、政府は華北への派兵を決定した。日本軍は個別の戦闘で次々と勝利を収め、戦線が拡大されると、全面戦争の様相を帯びていった。英米などの列強は仲介、斡旋の動きを示すが成果は得られなかった。

このような日中戦争の展開をみて、アメリカは次第に対日態度を強硬化していく。39年7月末にアメリカは日本に対し、日米通商航海条約の廃棄通告をし、翌1月末に日米通商航海条約は失効した。40年7月、第二次近衛文麿内閣が成立した頃、日独伊の三国同盟締結の動きが始まるが、アメリカはいよいよ本格的な対日経済制裁の実施に踏み切る。日本経済はアメリカに強く依存しており、経済制裁は大きな意味があった。

ますます緊張が強まるなか、戦争回避のための動きも見られた。しかし、この日米交渉でも、松岡洋右外相が強気を貫いたために難航した。

41年7月、日本軍はフランス領インドシナに進駐すると、アメリカは強く反発した。ここで、アメリカは日本の在米資産を凍結し、金融面から貿易の禁止的措置をとった。さらに石油輸出も全面的に禁止し、こうして日本はジリ貧状態に置かれることになった。近衛首相は、事態の打開を図りたいとアメリカ側に会談を申し入れた。しかし、これは不発に終わり、その後、近衛首相は退陣、東条英機内閣が成立する。

政府が対米交渉を進めている間、陸海軍の内部では次第に対米戦争の決意が固まっていた。11月5日の御前会議では、対米戦の準備が認められ、対米交渉が妥結しない場合には武力が発動されることが決められた。

日米交渉は、暫定協定を模索する動きも見られたが、アメリカは中国の意見も汲み取り、これをあきらめる。そして日本に提示したのが、ハルノートである。事態を満州事変以前にまで戻すべしといった趣旨であり、日本にとって飲みがたい内容であった。そして、日本側はこれを最後通告だと受け取り、交渉は断念された。

12月1日の御前会議で、政府として対米開戦の最終意思が確定されると、12月8日に真珠湾攻撃が実行され太平洋戦争が始まった。

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