レポート~日本政治史~なぜ軍部が台頭したのか

レポート~日本政治史~なぜ軍部が台頭したのか

この記事の所要時間: 326

日本政治史レポート

太平洋戦争で、なぜ軍部が台頭したのか。

軍部の台頭の要因としては、「軍部大臣現役武官制」と「統帥権」の取り扱いが挙げられる。

軍部大臣現役武官制とは、陸海軍大臣の補任資格を現役の軍人に限定した制度をいう。1900年5月、山縣有朋内閣が、政党勢力の伸張に伴い、軍政へのその浸透を防止するため、陸海軍大臣を「現役の中将又は大将」に限ることとした。これによって軍部が政治に影響を与える手立てが生まれたのである。

1911年、中国で辛亥革命が起きると、君主制が廃止され共和制国家である中華民国が樹立された。陸軍はこの中国の動きを警戒して、朝鮮に師団を2個増設させることを要望したが、政権を担っていた第2次西園寺公望内閣は閣議の結果、財政難を理由に採用しなかった。すると、上原勇作陸軍大臣は辞職し、陸軍は後任の陸相の推薦を拒否した。陸軍大臣のポストを埋めることができない第2次西園寺内閣は総辞職せざるを得なかった。この「陸軍のストライキ」といえる事態には批判が集まり、各界から護憲運動がおこるなど、軍部大臣現役武官制が問題視されるようになった。

第1次山本権兵衛内閣において、山本首相は自ら海軍に所属しながらも軍部の反対を押し切り軍部大臣現役武官制を改めた。条文の「現役の中将又は大将」から「現役」の文字を削除しただけではあったが、任用資格が予備役・後備役・退役将官まで選択肢が広がり、軍部の内閣人事に関する影響力に対する牽制となった。この功績は大きく、1936年に広田弘毅内閣が「現役」の文字を復活させるまで、軍部が政治に関与することを防いだ。

ところで「統帥権」とは、軍隊の最高指揮権をいい、明治憲法下では天皇の大権と規定された。第一次世界大戦時までは、元勲や藩閥が政治・軍事の両面を掌握していたため、内閣の影響の及ぶ国務から独立(統帥権の独立)しているかをめぐる問題は顕在化しなかった。しかし、1930年2月の総選挙で大敗した政友会は倒閣をもくろんで、同年4月に始まった第58帝国議会において、民政党の濱口雄幸内閣に対してロンドン海軍軍縮条約調印は統帥権の干犯であると非難した(統帥権干犯問題)。この問題によって、穏健な外交を行う与党や同条約に不満を持つ軍令部の反対派、右翼団体を大いに刺激し、内閣は軍に干渉できなくなった。同条約は10月2日批准されたが、11 月 14 日濱口首相狙撃事件がおこる。濱口内閣は1931年4月13日総辞職し、続く第2次若槻内閣は同年に勃発した満州事変を巡って政権を投げ出した。これで政友党に政権が回り、1931年12月13日犬養内閣が誕生する。しかし、犬養が軍縮を行おうとしたため、1932年5月15日には青年将校によって暗殺されてしまう(五・一五事件)。この犬養内閣以降、政党内閣は成立せず軍国主義化が加速した。

軍部の政治的影響力は、1936年2月26日の二・二六事件で強固なものとなる。陸軍の皇道派青年将校が武力による政治改革を目ざしたクーデター事件であったがクーデターそのものは失敗に終わった。しかし、軍部の要望を受け入れないと再びクーデターが起こるという恐怖が生まれ、軍部の影響力が増したのである。また、このとき軍部大臣現役武官制が復活され、陸軍には政治外交を担当する部署まで組織されるようになる。

以上のように、統帥権干犯問題により軍に対して干渉ができなくなり、さらには軍部大臣現役武官制の復活によって、内閣は軍部の傀儡政権となってしまった。こうして軍部が台頭したのである。

関連記事

レポート集~外交史~太平洋戦争開戦の過程
外交史レポート 太平洋戦争開戦の過程 満州事変が日中戦争へ発展し、太平洋戦争が開戦する過程における日本外交について述べる。 満州事変は、中国の提訴を...