政治学レジュメ~「国民」概念

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政治哲学レジュメ

国民とは

1、概要

岡本仁宏「国民」(古賀敬太編『政治概念の歴史的展開』)では、古典古代から現代までのnationの用法を整理し、naition概念は、三つの対抗軸の中で形成されてきたことを示している。この対抗軸というのは、第一に「出生⇔意思」の軸、第二に民主主義の軸(「臣民⇔市民」という参加の軸と「奴隷⇔平民⇔人民⇔貴族」という包摂の軸)、第三に「文化⇔文明」の軸である。

2、古典古代

英語のnationの由来であるラテン語のnatioは、古代ローマ世界で同じ地理的領域出身者の外国人集団を指していた。そして、natioは、相似した意味をもつ古代ギリシャ語のethnosと共に自分たち以外の集団を軽蔑的に指す意味を持っていた。

peopleの語源について。ローマ人民としてのpopulusは誇り高きローマ市民の集合体であったが、軽蔑的な意味も持っていた。というのも、populoは、荒廃させる、略奪する、破壊する、駄目にするなどの意味を持っていた。人民あるいは平民という言葉には、それが貴族層などとの比較において庶民を現すと同時に、無知で強欲な下層の群集という意味も負っている。

3、中世における展開

①大学における使用法

ここでは、軽蔑的な意味はなかった。次第に単に地域性のみならず、学問的論争の際にそれらの人々が共有する意見や目的によって特徴付けられる共同体の意味をもつようになる。

②ローマ教会の宗教会議における意見を同一にする党派を指す用法

大学は教会の知的訓練と権威の中心であったため、大学の中での意見の相違は、宗教会議での意見の相違に引き継がれる。

③エリートを指す意味

フランスでは、平民と区別された高位貴族や聖職者などnationであった。

後期中世ハンガリー王国において、「ナティオ・フンガリカ」のナティオとは、議会参加権・立法権・公職に付随する身分・政治概念の中心とした特権身分社団の総称であった。

④聖書における用法

ウルガタ聖書の新約の中で、natioはギリシャ語のethnosの訳として7回用いられている。

natioの英語への翻訳も、異邦人などの意味を残しつつ一般的に「親族や言語の共同体に関連して」使われている。つまり、限定された「エスニック」な含意を持っている。このような用法における語義は、近代と異なる中世におけるnation概念の限定的な意味内容に相応している。

4、近代

nationという言葉が大きな動員力を獲得し、政治思想の上でnationalismと結びつくのは、近代世界の形成過程においてであった。

①国民(nation)主権を人民(people)主権に引き寄せて解釈し、直接的で拘束的な代表を実現する方向。

⇒ 一層の平等化と均質化、普遍原理に基づく境界線の確定に繋がり、普遍主義的な自由主義的あるいは民主主義的nationalismを展開させる。

②nationを抽象化し具体的な民衆から引き離し、歴史的抽象的なあるいは社会階層的限定をつけて概念化し、かつ間接的非拘束的代表原理によって統治者の自立性を維持する方向。

⇒ 歴史と伝統の担い手としての特権層を重要な担い手として維持しつつ文化的nationalismを核として展開する。

この二つの方向は、nationと平民・人民との関係、nationと普遍的人権との関係をめぐり戦わされる。

そして、「文明」と「文化」、「国民」と「民族」といった対概念の対立の表現にも連なってくる。

ただし、ここでいう「国民」は、中世の特権的閉鎖的階層にのみ限定されていたのとは異なり、people的な意味内容が重ねられている。そこで、その民衆的「国民」的意味内容がどのように描かれるか問題である。

これは、「普遍的人権」を実現するとするヘゲモニー国家の暴力的な特殊性と、特殊な歴史的伝統を強調して文化の多様性の維持・尊重を主張する普遍性という二つの型の対比としても描ける。この意味で、近代国家権力の二つのイデオロギー的正当性の展開として追うことができる。

(1)マッツィニとルナン

マッツィニは、特権階層による既存政府を攻撃し、nationの統一を社会の民主主義的変革と一体のものとして追求し全イタリア民衆に呼びかけた。「人民の国は、自由な人々の投票によって定義され、王たちと特権カーストの国々の廃墟の上に立ち上がるであろう」

ルナンは、nationの存在は「日々の人民投票」なのだという。この「日々の人民投票」というフレイズは、nation概念における、種族、言語、宗教、利害の共通性、地理などの規定性を否定し、人民の「過去において共通の栄光を、現在においては共通の意思」の規定性を主張するものとして引用される。

(2)フィヒテとヘルダー

フィヒテはナポレオンによる征服下でドイツのnation-buildingを呼びかけた。

「喜んで」、「嫌が」っても「強制」によって、命を捧げることが求められる「炎」は、「民族そのものである民族、すなわちドイツ人」に宿る。この特殊性は、ドイツ語によって保障される。

フィヒテによれば、第一に言語の一致によってnationが定義されなければならない、第二に、言語の純粋性は、混交によって汚される、したがって第三に、言語の一致する民族がnationとして国家形成の基盤とならねばならない、第四に、ドイツ語は純粋な「始原的」言語であってこの点で他のnationに対して優越している。

以上のような内容はヘルダーを代表とするロマン主義思想家によって切り拓かれてきた伝統に依拠していた。ヘルダーの思想は、啓蒙主義に含まれた人類の普遍主義的進化論的発想に対する拒否、言語を中心とした多様な民族性・個性の固有の価値の尊重、文明の名による「遅れた」とされる民族に対する支配への嫌悪、帝国的複数言語・複数民族国家への激しい批判等に特徴付けられる。が、ヘルダーにはドイツ民族の優秀性という主張はなかったし、暴力的手段による民族統一、劣った民族の支配・教化、他民族との闘争のための国家強化という思想もなかった。

5、現代の論争

(1)民族自決

nationが単にstateを担う民のことであれば、nationはどんな国家にも存在するが、nationが民族を意味するとすれば、それは形成されなければならない。そして次のような問題が起こる。

①1つの国家の中に2つ以上のnationが存在する場合

国家を形成するまで発展していない、と考えられる人間集団は、nationではなくtribe(あるいはethnicity、ethnic group)と呼ばれる。つまり、national minoritiesは、ほぼ必然的にnation資格を奪われる。

②1つの国家に入りきらない同一のnationがある場合

多くの国では、国境をまたいだnationあるいはtribeの生活基盤が存在している。一般にnationの同質性は常に疑わしく、かつ常に意識的努力によって形成され維持されようとする。一方で同質性は、現在国家を構成している事実によってあることが想定され、想定に合わない現実は無視あるいは排除される。他方、核となる国家がnationを担う場合には、国境の外に住む同じnationの国家的統合という政治主張が声高に語られたりもする。その帰結は膨張主義による戦争である。

民族自決権は「人民の自治」権と翻訳され直した上で、多民族国家の現実と共存されえる形態においてのみ、正当性を維持することができるだろう。

(2)多文化主義

「多民族連邦主義」と「移民多文化主義」の承認

①国内の地域的に集住していたり、支配的nationが征服・侵入した地域の先住民であったりする人々に対して分離・自治などの広範囲な政策オプションが次第に認められつつある、という点。

②移民に対する多文化主義的統合形態が認められつつあるという点。

↓ このような変容がnationの語義にどのような影響を与えているか。

OEDでの第一の語義

Ⅰ人民(a people)あるいは、人々(peoples)の集団、政治的国家

1.a.共通の先祖、言語、文化、歴史、同じ領域の占有などの要素によって区別された人民(people)を構成する統一した諸共同体(communities)および諸個人の大きな集合体。今ではまた、政治的国家(a political state)を形成している民(people)、政治的国家(複数形において初期の用法では国country)

「今では」「領域、政治的統一、独立」がますます重視され、「人種や共通の祖先」などを強調するのは時代遅れになりつつある。現代では、nationがstateやpeopleに近づくにつれて、nationからethnicityの意味が取り去られていきつつある、と言えよう。

~岡本仁宏「国民」古賀敬太編『政治概念の歴史的展開』第2巻、晃洋書房、2007年~

こちらの記事↓も参考にして下さい。

政治学レジュメ~パトリオティズム(愛国心)
政治哲学レジュメ 岡本仁宏「パトリオティズム(愛国心)」 ~古賀敬太編『政治概念の歴史的展開』第3巻、晃洋書房、2009年~ こちらの記事↓も参...

『国民』を疑う

1、概要

岡本仁宏「『国民』を疑う」(日本政治学会編「年報政治学2011-I」木鐸社、2011年、11-48頁)は、『「国民」概念は必要なのか』という問いを立て、「国民」概念を使うべきでない場合や使う必要がない場合に、無意識で使われていることが、政治世界に大きな制約をもたらしていると主張している。

2、nationの訳語

nationという言葉は、少なくとも三つの翻訳語に対応する。すなわち、国民、民族、そして国家である。そして、三つの翻訳語の使用は、決して一貫していない。

3、日本国憲法における「国民」という訳語 (15-17頁)

日本国憲法における「国民」は、10条を除き、the peopleあるいはthe Japanese peopleと英訳されることから、「国民」ではなく「人民」と訳せる。とくに「第三章 国民の権利及び義務」は、Rights and duties of the peopleであるから、「人民の権利及び義務」と訳せる。

当初GHQ草案にあった「We, the Japanese People,」という部分は「我等日本国人民ハ」と自然な形で翻訳されていた。しかし、人民主権を不明確にするために、日本側の官僚たちの意識的な操作によって「国民」という言葉が採用された。

そして筆者は、次のように問題提起をする。

憲法規範における「国民」という遺産を我々は背負っているが、我々はこの言葉を背負っていくべきなのか。

4、国民概念の意味(17-18頁)

国民概念について、日本国憲法の解釈上、三つの意味が取りだされている。第一に国籍保有者、第二に主権者としての国民、第三に有権者である。

このうち、第二の主権者としての国民概念は、概念構成上決定的な位置を占める。というのも、主権者としての国民概念には、憲法制定権力の担い手としての国民概念と結びつき、さらに、ともに政治共同体を樹立し生きるという意志を表現することが可能な統一性の観念に結びつく。この統一性の観念は、第一の国籍保有者の境界線を区切る際の理念として、また、第三の有権者の総体の範囲を決定する際の理念として機能する。したがって、デモスの自己定義が、概念構成上の範囲を定めることになる。

以上を前提に、筆者は、第二の主権者としての国民概念について、二点を指摘する。第一に、憲法制定権力としての論理的に前国家的な「国民」主体はpeopleだという点、第二に、peopleを国民とすることで否定的な意味作用が生じるという点である。

5、憲法制定権力としての「国民」主体(18-19頁)

本来、この憲法制定権力としての論理的に前国家的な「国民」主体は、peopleなのであってnationではない。国連憲章では、「人民の同権及び自決の原則」(the principle of equal rights and self-determination of people)や、「人民がまだ完全に自治を行うに至っていない地域」(territories whose peoples have not yet attained a full measure of self-government)という表現が見られるように、論理的に前国家的な存在としての人民が想定され、その人民が一定の時点において政治共同体を樹立する可能性が表現されている。

筆者は、この場合にpeopleであってnationが使われていないことは二つの意味があるという。それは第一に、peopleを一義的に民族あるいはエトノスとして定立することはできないこと。第二に、国家の存在を前提とした上で参政権の主体としての国籍保持者としての国民を語るのではなく、国家を樹立する主体としてのpeopleが論理的に先行するということである。

6、peopleを国民とすることの否定的な意味作用(19-22頁)

(1)民主主義の要件

まずダールの民主主義的な政治制度の具えるべき6要件のうち最後の要件を提示する。「市民権の包括的付与」(inclusive citizenship)として「その国に永住的に居住しその法に従う成人は誰でも、市民が手にすることができ、かつ上述の五つの政治制度にとって必要とされる諸権利を否定されることはあり得ない」という条件である。

次に、このダールの要件を日本国憲法下で説明するとどうなるか。浦部法穂の国民主権の捕らえ方を提示する。浦部は「『国籍』が先にはっきり決まっていて、その国籍保有者を主権者とする原理として『国民主権』が唱えられたわけではなく、まさに、『国民主権』原理に基づく統治機構のもとで主権者の範囲を確定する前提として『国籍』の明確化が必要とされたのである。単純に図式化していえば『国籍』が『国民主権』の内容を規定したのではなく、『国民主権』が『国籍』の内容を規定した」とし、「『国民主権』原理の『国民』が具体的にどの範囲の者を指すかは、どの範囲の者が主権者であるべきかによるのであって、当然に『国籍保有者』に限られるというものではない」といっている。

「国民」という言葉の制約を受けて、ダールの主張と同一の趣旨が困難な形で表現されている。

(2)民族主義的な同一化への回路

ナショナリズムの歴史を一見すれば明らかなように、特に対外危機を媒介として決定的に、「国民」の一体的同質化のプロセスは強化されてきた。

筆者は、今後、日本の近隣地域で緊張感が高まり、小規模であれ実際の軍事行為が行われたとすれば、国内パトリオティズム・ナショナリズムの急速な激化は避けられないであろうと指摘する。そこで「国民」をできるかぎり「人民」概念で代替することが、ナショナリズムの民族主義的な強制的同一化を弱めるだろうという。

~岡本仁宏「『国民』を疑う」日本政治学会編「年報政治学2011-I」木鐸社、2011年、11-48頁~