政治学レジュメ~ルナン『国民とは何か』

政治学レジュメ~ルナン『国民とは何か』

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政治哲学レジュメ

J.エルネスト・ルナン『国民とは何か』 鵜飼哲(訳)「国民とは何か」、インスクリプト、1997年

フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は全体で14の講演から成るが、本書では、「バリバールらの議論に直接関係し、現代の国民論にとって重要と思われる、第4回、第7回、第8回、第13回、第14回を全訳」すると言い、そのほかの講演については要旨が紹介されている。

第1回講演 予備的な回想と全体の概要

この講演を始めるにあって、三つのことを聴衆に期待したい。すなわち、もっぱらドイツ人として考えること、悲しみのとりこにならないこと、真実を見る意思と勇気をもつこと、である。
そのうえで、「利己心の自己崩壊」の生じた原因について述べるなら、それは個人と全体を結びつける絆が断ち切られていたことにある。「現在の生活に対する恐れと希望」こそ、この絆だった。たがこの絆は完全に切断されたいまや、新たな結合手段が見出されねばならない。
そこで、「従来の教育制度の抜本的改革」、国民を新たな自我へと形成する「国民教育」を提案したい。これはたんなる「民衆教育」ではなく、ほんとうの「ドイツ国民教育」でなければならない。つまり、教養層を特権化して国民一般から区別するものであってはならない。

第2回講演 新たな教育一般の本質について

従来の訓戒を旨とした教育は、生徒の資質に依存した偶然的な成果しかあげられなかった。それに対して新たな教育は、人間を新たに作り上げるのでなければならない。「確固とした、誤りのないよき意志を人間のうちに形成する、確かで、熟慮された技術」、それがここで提案する教育の第一の特徴である。
そのために、現実の「理想像」を自主的に生み出してゆく能力が、生徒のなかに目覚めさせられねばならない。事物の普遍的な法則を認識しようとし、そのような認識に積極的な快を覚える能力である。従来のようなたんなる受動的な暗記は、認識を損なうだけでなく、生徒の道徳的な感覚をも墜落させてしまうだろう。
このような教育が実現されるために、生徒たちは、一般社会から切り離されて、互いに共同生活を送らなければならない。その共同体は、事物の本性に基づき、理性の要求に合致した「体制」を有していて、これによって理想的な秩序愛を生徒のうちに育むことになるだろう。そこでは精神的な教育のみならず、身体的な訓練や農耕、手工業的な労働も行われ、生徒はここでの理想を胸に実社会に出てゆくのである。

第3回講演 新たな教育についての叙述の続き

新たな教育は既に述べたように、純粋な道徳心を生徒のうちに作り上げる技術である。ただこの教育はまた、「超感覚的な世界秩序」、永遠に存在する精神世界の一員に、生徒を参入させるものでなければならない。すなわちこの教育は生徒の宗教心を育て上げることをもめざさねばならない。その際の宗教教育は、自分および他人の精神生活を神との直接的な接触として認識し神聖視することを教えることになる。
このような教育の与える効果、およびこのような教育の全体的なイメージは次の通りである。

① 人間の意識には、不明瞭な感情と明瞭な認識という2つの根本的な形態がある。これによっても人間もまた、前者を原動力とするものと後者を原動力とするものに二分される。
② 明瞭な認識が原動力となるとき、「利己心」は完全に克服される。
③ 自己愛こそ人間の根本衝動だが、これが明瞭な認識へと転化されることで、この衝動はア・プリオリな世界、永遠の世界に向かう。
④ この明瞭な認識を基にした教育は、人類に新たな時代を切り開く。それはドイツ人に課せられた使命である。
⑤ この新時代は無に行き着いた旧時代を引き継ぐものである。

第4回講演 ドイツ人と他のゲルマン系諸民族との主要な差異

新たな教育手段は、何よりもまずドイツ人によってドイツ人に対して適用されなければならず、この教育手段はまったく本来的に、そしてまずもって、わが国民にこそふさわしい。

ドイツ人とは、第一に、ゲルマン人全体の中の一種族である。ゲルマン人については、古代ヨーロッパで確立された社会秩序と古代アジアで保持されていた真の宗教を一つにまとめ、それによって、没落していった古代とは対照的に、自分自身に即して自分自身のうちから、新しい時代を生み出していった人々であると規定する。そして、その中からドイツ人を取り出して、彼らと伴に成立したほかのゲルマン系の種族と対照させて見るだけで、ドイツ人を特徴付けるのには十分である。

ドイツ人の運命と、出自を同じくする他のゲルマン系種族の運命との間の差異に関してまず考察されるべきことは、ドイツ人は基幹民族の元来の居住地に留まっているのに対して、他の種族は別の場所へ移ってしまったこと。また、ドイツ人は基幹民族の元来の言語を保持しそれをさらに発達させてきたのに、他の種族は外国語を受け入れそれを自分たちのやり方で徐々に変形させていったということである。
これらの変化のうち、故郷の変化は、まったく取るに足りない。というのも、人間はどんな空のもとでも容易になじむものであって、民族の特性は居住地によって著しく変化をこうむるものではないのである。したがって、このことから純粋性が保持されていることを立証することは容易ではない。

他方、言語の変化は重要である。これこそがドイツ人と他のゲルマン系民族の間の完全な対立の基礎にある。
言語一般、とりわけ発声器官による音声化を通じての、対象の言語による指示は、恣意的な取り決めや約束に決して依存していない。

最初に、純粋に人間的な言語が民族の発声器官と一つになることによって、民族の言語が生じる。次に、所与の状況の下で、その第一声が必然的に獲得することになった色々な発展と純粋に人間的な言語が一つになって、その最終的な帰結として現在の民族の言語が存在しているのである。

したがって、言語は常に同一の言語であり続けている。祖先の言語を子孫たちが理解しえない場合があっても、飛躍を持たない持続的な移行が初めから存在している。同時代の人々が互いに理解しあうことを止めてしまう瞬間が訪れたことは一度もない。それは、彼らすべてのうちから語りだす共通の自然の力が常に彼らの永遠の媒介者であり通訳者であり続けたためである。直接に感覚的な知覚の対象を表現する言語とはこのようなものであり、またあらゆる人間の言語とは、まず最初はこうしたものである。

ところで、このような言語から超感覚的なものの把握へと民族が高まっていく場合、この超感覚的なものは、最初の一人一人が、任意に反復することが出来、かつ感覚的なものとの混交を避けることが出来るものでなければならない。またそれは、他の人々にとっても伝達可能で、目的に沿った形で扱えるものでなければならない。

超感覚的なものの指示はすべて、それを実際に指示する人の感覚的な認識がどれだけの広がりをもちどれだけ明晰なものであるかに依っている。感覚的イメージが超感覚的なものを指示する人の頭に明晰に浮かんでいるならば、その感覚的イメージは、概念的なものが精神的器官に対してどのような関係にあるかと言うことも、彼にとってきわめて明晰に現す。というのも、この関係は、彼の感覚的器官に対するもう一つの直接的に生き生きとした関係を通じて説明されるからである。こうして成立する新たな指示が、記号を拡張して使うことによって感覚的な認識それ自体が獲得する新たな明晰さのいっさいを伴って、いまや言語の中に蓄積されるのである。将来生じるかもしれない超感覚的認識はいまや、言語の全体の中に蓄積されている超感覚的認識と感覚的認識の総体との関係に従って、指示されることになる。

民族のなかで最初の音声が発せられて以来その民族の現実の共同生活の糧として中断することなく発展してきた言語を話す人にとって、言語のなかに蓄積された感覚的イメージは明晰であり、生き生きとしていて、自らの生命を突き動かすものとなっている。

しかし、ある民族が自分自身の言語を捨て去って、超感覚的な指示にまで十分洗練されている外国語を受け入れる場合には、いままで述べたことの全てと正反対の結果が生じる。しかも、その民族がこの外国語の発展に完全に身を委ね、自分がこの外国語の直感領域の圏内に入り込むまではつつましく沈黙を守るというのではなく、自分の直感領域をこの言語に押し付け、今後この言語が彼らの地点から、彼らの直感の圏内で前進していかざるをえない。
このとき、言語の感覚的な部分に関しては、確かにこのような事態は何ら致命的ではない。しかし、言語の超感覚的部分に関しては、言語の取替えはきわめて重大な帰結をもたらす。言語の最初の所有者はよいが、その言語をのちに獲得する者にとっては、感覚的イメージは彼らの元にはない感覚的直感との比較を含む。このような状態で、彼らは、他国の教養の表層的な死せる歴史を獲得することはできても決して自分自身の教養を得ることはない。こうして、歴史が説明役として登場することによって、いまや彼らにとってこの言語は、そのイメージの領域全体において、死せるもの、固く閉じたもの、そのたえざる歩を断ち切られたものとなる。

つまり、ゲルマン系諸民族とドイツ人との差異は、共同体としての種族が最初に分裂した際に生じたもので、その本質は、自然力から溢れ出る最初の流れまで遡りうる生き生きとした言語をドイツ人が話しているのに対して、残りのゲルマン種族は表面だけは活発であってもその根においては死んでしまっている言語を話しているという点に存するのである。

一つの民族の人間としての発展全体に、その言語の性質がどれほど計りがたい影響を及ぼすか。言語は、思考においても意欲においても、一人一人の心情の最も奥深くにまでつき従い、制限を課したり、鼓舞したりする。言語は、それを話す人間の群れ全体を、自らの領域内で一つの唯一の共通理解へと結びつける。言語は感覚的世界と精神的世界とが相互に貫流しあう真の交点をなしていて、この流れの両端をすっかり融合させているがゆえに、言語自体がどちらに属するのか言い当てられないほどである。それが生きたものと死んだものの関係であるような場合、どのような結果になるか。それは、ドイツ人は発達の止まったローマの言語と比較しうることによって、自分自身の生ける言語をいっそう深く探求する手段を有しているということである。ローマの言語は、その感覚的イメージの形成過程においてドイツ語とは趣を異にしているので、逆にローマの言語をいっそう明確に理解することもできる。これは同じ一つの言語圏域に根本においてとらわれている新しいラテン語系民族には、だからこそなしえない。

ドイツ人は、自らの利点を存分に利用さえすれば、外国人をいつでも眺め渡し、外国人を完全に、当人自身よりよく理解することすら出来るのである。

第5回講演 前に指摘した相違から帰結する事柄

死せる言語においては、精神の発達と生命が無関係に存在しているのに対して、生ける言語は生命その物に働きかける。とりわけ、いまなお生ける言語として存在する始原的な言語によって行われる思考作用、すなわち哲学は、その思考作用を営む人々の生命と一つである。

民族の精神的発達の第二の主要部門をなすものこそ「詩作」だが、言葉の本来の意味での詩作をなしうるのは、生ける言語をもつ民族のみである。なぜなら、生ける言語のみが言語の「感覚的イメージの領域」の拡大を果たしうるのだからである。死せる言語を話している民族は、このような高度な意味での詩をいっさい持たない。

外国語を採用したゲルマン諸民族は古代ギリシア・ローマと親しく接することによって、古典研究を推し進めた。だがそれは、たんなる好奇心に基づく浅薄な研究にすぎなかった。始源の言語を話すドイツ人は、この古典研究を現実の生命の要素として、現代の世界へ送り返す。こうして二つに分かれたゲルマン民族は、それぞれの役割を果たすことによって、古代文化を新たな時代の中で引き継いでゆく。

外国(外国化されたゲルマン民族の国=フランス)はいわば地上界であり、母国ドイツはそれを包む永遠の天空である。

第6回講演 歴史上のドイツ人の基本性格についての説明

ドイツ人の最近の「世界的事業」である宗教改革を手がかりにして、始源的な言語を話す国民の特徴を説明してみよう。

キリスト教はローマにおいても、新たなラテン系諸民族においても、その魂に浸透し血となり肉となる、ということがなかった。ルターがはじめて「永遠の浄福」、魂の救済という要求を真剣に掲げたのである。しかもこのルターの主張は、ただちにドイツの一般民衆によって受け入れられた。これによって近代世界は、ギリシア・ローマの古代文化をキリスト教によって精神化(霊化)し神聖化する、という任務を果たしえたのである。

外国ではあらゆる権威を疑う態度が盛んであって、これはドイツにも正しい刺激を与えてきた。だが外国においてこの衝動は、悟性の域を脱しなかった。それに対して、例えばライプニッツは、理性のうちに絶対的な真理の源泉を見出した。

こういったことは、伝統的にドイツではあらゆる文化が一般民衆から発達してきた、という事情とかかわりがある。中世ドイツに繁栄した都市文化は、ドイツ人が共和体制にふさわしい国民であることを数世紀来示している。この時代のドイツ人の歴史を生き生きと伝えることは、ドイツ精神を再興させるのにうってつけの手立てとなろう。

第7回講演 民族の始源性とドイツ性のさらにいっそう深い理解

ドイツ人は根源的民族(Urvolk)であり、端的に民族と自称する権利を持っている。「ドイツ的(Deutsch)」という言葉がその本来の語義からしてこれを表現している。< Deutsch は古高ドイツ語で「民衆的/民族的」の意>
ここでは、このテーマについて、ありうべき異議を取り上げる。もしこれがドイツ人の特性であるとすれば、現在ドイツ人自身のあいだにはドイツ的なるものはもはやほとんど残っていないと我々は告白しなければならないだろう、という異議である。

新しい世界の教養の進展について、根源的民族は、外国の不十分で皮相な教養の動きによってまず刺激され、それによって、自分自身の内奥から展開される一層深い創造に向かっていく、という形で関わってきた。刺激を受けてから創造に向かうまでには相応の時間がかかる。創造がまだ表に現れていないこの時期には根源的民族が外国人と全く同じようにしか見えなくなる。ドイツはいままさにこうした時期にある。だからこそ、大多数の住民が独自の内的本質と生命の全体を失って陥っている、外国かぶれという現象が生じている。

現在、ドイツに刺激を与えているものは、自由な思考としての哲学、外国の名望ある事項の盲信という足枷を解かれた思考としての哲学である。この刺激はまだ新たな創造にまで到っていない。しかし、極少数の人によっては新たな創造が始まっている。このことを一つ一つ明らかにしていく。

まず重要なのは、人間は自ら学問的見解を何か自由気ままにあれこれと形成するのではない、ということである。外国の内的本質、すなわち非始源的なものの内的本質とは、何らかの最終的なもの、確固たるもの、変わることなく存在するものを信じること、つまりはある限界を信じることである。外国人は必然的に死(限界)を、始源的なもの、最終的なものとして、あらゆる事物ならびに生命の根本的な源泉として信じるほかないのである。

外国の根本的な信仰がドイツ人の間で現在どのようなかたちで口にされているか。

この根本的な信仰はまず第一に、本来的な哲学のなかで語られる。現在のドイツ哲学は、徹底性と学問的形式を、それらを手に入れることが出来ないにもかかわらず欲している。この哲学は、統一性、また、単なる現象ではなく現象の中に現れているその現象の根底を欲している。これらの全ての点で現在のドイツの哲学は正当であり、現在外国において支配的なさまざまな哲学よりも遥かに優れている。外国かぶれしていてもドイツの哲学は外国の哲学よりも遥かに徹底的で首尾一貫しているからである。

外国流の哲学者は、自分自身の殻から飛び出して生命それ自体に到ることなど自分では出来ず、自由に飛び立つために足場や支えを必要とする。だからこそ、自らの思考を働かせたところで、彼らはその足場よりも先に進むことはない。思考とは彼ら自身の生命の模像であって、何らかの存在物(Etwas)でないものは、彼らにとっては必然的に無(Nichts)ということになる。なぜなら、彼らの生命がこの両者以外のものを持たないがゆえに彼らの目もこの両者以上のものを見ることがないからである。彼らが唯一あてにできるのは、自分の感情だけであって、これだけは彼らにとって絶対確実なものと思われている。

自分自身の中で究極にまで到達し、現象を超え出て本当に現象の核心にまで突き進んだ真の哲学は、一つの純粋で神的な生命から出発する。つまり、生命そのもの、完全なる永遠のなかにありながら、しかもその永遠のなかで常に同一のものであり続ける生命から出発するのであって、あれこれの生命から出発するのではない。外国流の哲学は存在を前もって与えられたものとみなすが、真の哲学にとって存在は生起するものに他ならない。だからこのような哲学こそが、まさに本来的にひとえにドイツ的、即ち始源的なのである。

ドイツ人とこれ以外の者との差異を決する本来の根拠は、人間自身のうちに絶対的に第一のもの、始源的なものがあると信じるか、つまりわれわれ人類が自由であり、無限に改善され、永遠に進歩するものであると信じるか、それともこれらのことをすべて信じないで、それどころが事実はそれとは正反対だとはっきりと自分は洞察し理解したと思い込むのか、という点にある。

自由を愛する人、このような人々はすべて始源的な人間であり、彼らをひとつの民族としてみるならば、一つの根源的な民族、民族そのものである民族、すなわちドイツ人なのである。

精神性ならびにこの精神性の自由を信じる人、そしてこの精神性を自由を通じて永遠に発展させようと欲する人、そのような人々は、どこで生まれどんな言語を話していようとも、我々の同胞である。
しかし、停滞や退行、循環を信じたり、あるいは死せる自然に全面的に世界統治の舵を握らせたりする者は、どこで生まれ、どんな言語を話していようとも、非ドイツ的であり、我々にとってはよそ者である。こうした人々はできるだけ早く我々のもとから跡形もなく立ち去ってほしいものだ。

第8回講演 言葉のいっそう高次な意味において、民族とは何か、祖国愛とは何か

これまでの探求の歩みが的確な進み方をしていたのであれば、もっぱらドイツ人のみが一つの民族を有しており、一つの民族を信頼することが出来るということ、そしてひとえにドイツ人のみが自らの国民に対する本来的で理性にかなった愛を抱くことができると言うことができるはずである。

高貴な考えの持ち主であれば、自分の種族(Geschlecht)が完成に向けて無限の発展を続けていくために、行為ないし思想を通じて一粒の種を蒔いておきたいと望むに違いない。そして、自分のなした事柄が永遠不滅のものであることを要求し、かつそう信じている。では、何が彼のこの要求と信念を保証することが出来るか。これは明らかに、彼自身が永遠なるものと承認しうるような事物の秩序、永遠なるものを受け入れる能力があると彼自身が承認しうる事物の秩序のみである。そのような秩序は、人間の環境と言う特殊な精神的自然である。この環境こそ、彼がその基で生まれ、教養を積み、現にある姿にまで成長を遂げてきたところの当のもの、すなわち、民族にほかならない。

地上的なものの永遠性を担うものでありそれの証となるもの、現世において永遠でありうるものとしての民族と祖国は、通常の意味での国家を遥かに超えたところに存在している。

祖国愛が本来望んでいるのは、永遠なるものと神的なものが永遠なる存続のなかでますます純粋に、ますます完全に、さらに一層ふさわしい姿で花開く。だからこそ、この祖国愛が国家そのものを統治しなければならない。この統治はまずもって、国内の平和という当面の目的のための手段を選択する際に、至上で究極の独立した機関である祖国愛が国家に制限を加えることによってなされる。もちろんこの目的のためには、個人の自然的な自由に様々な仕方で制限が加えられねばならない。そして、仮にこの個人の自由以外に自由に関していかなる考慮も意図されていないのならば、この自由を出来る限り制限し、その様々な発動形態を単調な規則のもとに統合し、自由を耐えざる監視の下に置くのがよい。

自由とは一層高次な教養が芽生える土俵にほかならない。単調な安らぎや平安が少々乱され、統治が多少困難な骨の折れることになる、という危険を冒してでも、この一層高次な教養を視野に入れた立法者ならば可能な限り広い活動圏を自由に対して与えるだろう。

自由とはもっぱら、国家を超えた一層高次な目的のためにのみ存するから、一般的な標準を越え出た高貴な人物が全く居ない国民、そんな国民がもし存在するのであれば、そのような国民に実際自由は必要ないだろう。

始源的な民族には自由は必要であり、この自由こそがその民族が変ることなく始源的であることの証であって、そのような民族はその存続につれてますます増大してゆく自由を危険なく担うものである。そしてこれこそが、祖国愛が国家を統治しなければならないと言う際の理由となる。

したがって祖国愛は、国内平和の維持、全成員の財産、人格的自由、生命、福祉の維持といった通常の目的よりも一層高次な目的を国家に課すものであって、そういうものとして国家を統治しなければならない。この一層高次な目的のためにのみ、国家は武力を蓄えるのである。武力の行使の議論がされ、単なる概念として存在する国家の全ての目的、すなわち財産や人格的自由や生命、福祉と言った目的、それどころか国家の存続それ自体を賭ける必要が生じる場合がある。その意図が達せられるかどうか確かな見通しもなく、その種の見通しは事柄の性質上断じて不可能であり、始源的にかつ神にのみ責任を委ねるかたちでことを決しなければならない、という場合も生じる。そういう場合に初めて、真に始源的な第一の生命が国家の舵取りの位置に就いて生命を獲得し、この位置に初めて統治の大権が姿を現し、神にも似て、より高次な生命の為に低次の生命を投じるのである。

第9回講演 ドイツ人の国民教育はいま現存するどのような地点に結び付けられねばならないか

ドイツ国民の現状を救い、その存続を保証する具体的な術策こそが、ここでの我々の関心事である。

ドイツという国の指導権を担いうるのは、これまで常にそうだったように、ドイツ人の「祖国愛」以外にありえない。だが、そのような祖国愛がもはや支配者のうちに求められない以上、この愛が教育を通じて、もっと広範な国民層に根を下ろすようにしなければならない。その際、あたらしい教育は、まずもって生徒の思考の世界に導くことを目指す。そのようにして獲得された「精神」こそが、われわれに解放をもたらすだろう。

我々が具体的な出発点とすべきは、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746-1827、スイスの教育家)の教育方法である。彼の教育は何よりも、生徒を直観の世界に導きいれることをめざし、その上で、確実な計画性を持った教育を生徒に施そうとする。この教育方法は我々の考える教育の根本概念と合致している。

個々の点では、ペスタロッチの教育方法にはいくつかの欠陥がある。それは彼が民衆教育に重点を置いていたことによる。我々は彼の教育の根本概念を、「学者の教育」という視点をも含みながら、いっそう広範な「国民教育」という観点から発展させてゆかなければならない。そうすれば、身体教育への彼の配慮なども示唆的となるだろう。

第10回講演 ドイツ国民教育のいっそう詳しい規定

これまで述べた教育は全体としての教育の一部であって、第二の重要な教育、公民的・宗教的教育の準備段階であるにすぎない。この第二部の教育によってこそ、我々の新しい教育は完成する。

この第二の教育においては、認識の対象に対する愛だけでなく、一つの理性的な共同体を形成しうるような実践的な愛が育まれる。この愛については、ペスタロッチの教育論を離れて、われわれ自ら考えなければならない。その際、我々が出発点とするのは、どの子供のうちにも自然に備わっている「尊敬の衝動」であり、とりわけ父親に対して子供が抱く自然な愛である。母親への愛が利己的な要素をもつのに対して、この愛は互いに尊敬されたいという純粋な衝動を本質としている。

だが、この衝動が歪められることなく発現するためには、やはり子供は墜落した一般社会からは隔離された小社会(学校)で教育されねばならない。生徒が何よりも自主独立した思考の持ち主として巣立ってゆくために、その小社会では、学習と労働が統一され、可能な限り自給自足の経営がなされていなければならない。そこでは男女共学を原則とし、「経済教育」も「国民教育」の一部として不可欠となる。「孤独な思索」を旨とする学者教育もまた、この国民教育の一部として、特別な能力をもった生徒に施される。

第11回講演 この教育計画の実行は誰に委ねられるか

このような教育計画を実行しうる最高の責任者は誰か。それはまずもって国家である。しかも個々の王国や侯国ではなく、全体としてのドイツである。

これまで公教育を唯一担ってきたのは教会であった。しかし、その際の教育は専ら天国における幸福だけを目標とし、この地上における一般大衆の教育はまったくなおざりにされてきた。宗教改革以降もそれは変わらなかった。

このような教育の実行が国家にとってあまりに高くつくのではないか、という疑問は的外れである。たとえば、現代の国家は軍備に膨大な出費をしているが、もしもこの教育計画が実現されるなら、国家はどんな軍隊よりも強固な武器、祖国愛を備えることになるだろうし、監獄や感化院への出費を減少させることも出来るだろう。また、このような国民教育が不自由な「強制」を国民に強いる、という非難もあたらない。兵役の強制と比べれば、この教育の強制は個々人に喜ばしい結果以外をもたらさないからである。

「すべてのドイツ人に共通のドイツ語」で行われるこの教育計画を実現するうえで、ドイツが多くの侯国に分かれているのはむしろ有利である。各国はこの教育の実現の為に、互いに競争し合うことになるだろうから。この義務を国家が果たさないときには、領主が、都市が、そして自覚ある個人がこれを開始し、それはやがて全体に波及してゆくだろう。

第12回講演 われわれの主要な目的を達成するまで屈しない手立てについて

このような教育が十全に実現されるまでには、それ相応の年月を必要とする。新たな教育を施された人々がこの教育の完全な実現に到るまで、その精神を屈伏させないでいることはどのようにして可能か。それは、我々が何よりも「ドイツ人であること」に徹するよりほかない。つまり、我々がドイツ人としての「性格」を強固なものに作り上げ、重大な要件に関してドイツ人として一つの見解をしっかりと抱くことである。

だがまさに、そもそもドイツ国民の本質とその存続が危機に直面しているかどうか、ドイツ国民が存続するに足る価値を持つものかどうか、ドイツ国民を維持する確実な手立ては何か、という重大な要件をめぐって、現在数々の夢想や自己欺瞞がはびこっている。我々はこれを一つ一つ正さねばならない。

政治的独立は失ってもドイツ語やドイツ文学が国民としての統一を果たしてくれる、などという見解はその代表である。政治的に独立していなければ、国語と文学の存続を保証するものはいっさい存しない。言葉の面においても、被征服者を待ち受けているのは、征服者への同化である。本来、学者も著作家も、独立した国家を形作っている民族の言語を用いて以外、ものを書きえないのである。

さらに多くの誤った空虚な考えについて、われわれは考察しなければならない。

第13回講演 前回の講演で始められた考察の続き

まず最初に、そしてとりわけ重要なこととして申すと、国家と国家を分かつ最初の始原的な、そしてほんとうの意味で自然な国境とは、疑いもなくその内的な国境である。同じ言語を話す者たちは、あらゆる人為に先だって、その自然的な本性そのものによってすでに、無数の目に見えない絆によって互いに結びつけられている。彼らは互いに理解しあい、互いの考えをますます明瞭に理解しあうことができる。彼らは集まって一団をなし、自然な統一体を形づくり、不可分の全体をなしているのである。

人間の精神の自然本性それ自体によって引かれた、この内的な国境から初めて、その結果として、居住地という外的な国境が生じる。事態の自然な見方からすれば、ある山と山、川と川に区切られた内部に住んでいるからといって、その人間たちは決して一つの民族なのではない。逆に一つの民族であるからこそ、ともに暮らしているのである。そして幸運にも川や山々に囲まれて彼らが住むことができるようになったとすれば、それは彼らがそれに先だって遥かに高次な自然法則によって一つの民族であったからなのだ。

平和を維持する唯一の方法は、平和をかき乱すことが可能な力を誰も保有していないこと、自分の側にある攻撃力と丁度同じだけの攻撃力が相手の側にあるということを誰もが知っているということ、したがって総体としての力の均衡ないし拮抗が生じていることである。それゆえ、誰もが同じく渇望していながら誰一人として占有権を具えていない獲物、そしていたるところでますます活発に動きつつある現実の略奪欲、この二つの要件が、ヨーロッパにおける勢力の均衡という周知のシステムの前提となっている。

しかし、この前提は例外なく設定されるものであろうか。かつて優秀なドイツ国民はこのような獲物に手をつけることなく、この獲物への欲望に染まることなく、またこの獲物への権利を主張するといった傾向すらほとんど持たず、ヨーロッパの中央にとどまっていた。このドイツ国民が一つの共通の意志、一つの共通の力へ統合されたままでありさえすれば、たとえ残りのヨーロッパ人たちが殺戮しあっていたとしてもヨーロッパの中央においてドイツ人の堅固な塁壁が彼らの衝突を防げたことだろう。

もっぱら目前のことだけ考えると外国(フランス)の利己心にとって、自他がこのようであることは都合が悪い。彼らは自分たちが戦争を遂行するのにドイツ人の勇敢さが役立つこと、ライバルから獲物を奪い取るのにドイツ人の手を使うのが得策だということに気づいたのである。この目的を達成するための手立てが見いだされねばならない。ドイツにまずは宗教上の争いをめぐって成立した心情の分裂を利用した。内的に生じた統一をもとに総体としてのキリスト教的ヨーロッパを小さな形で総括したのもドイツを切り離されてばらばらに存立している部分へと外国は人為的に分裂させたのである。ちょうど総体としてのヨーロッパが共通の略奪をめぐって自然的に分裂していたように。

第14回講演 全体の締めくくり

今回で終えることになる私の講演において、もちろん私の実際の声はさしあたりみなさんに向けられてきたが、私はこの講演をドイツの国民全体を見つめながら行なってきた。また、ドイツ語が聞こえてくればそれを理解することができるであろうすべての人々を、みなさんがいま現に居合わせておられるこの場に呼び集めることを意図して行なってきた。私の眼前で脈打っている誰かの胸に一つの火花を投げ入れることに成功し、その火花がそこで燃え続け、生命を獲得するとしても、私の願いはその火花の持ち主たちが一人で孤立して存立していることではない。共通の土壌の全体にわたって同じ心情と決意の持ち主たちが彼らのもとに結集し、彼らの心情と決意に結びつき、その結果、祖国の全土にわたって、この中心から発してあらゆる隅々に到るまで、祖国的な思考様式というただ一つの炎が拡がり寄り添い合い、次々と発火を促してゆくこと、そのことを私は願っている。