政治学レジュメ~民族とナショナリズム

政治学レジュメ~民族とナショナリズム

この記事の所要時間: 1529

政治哲学レジュメ

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』

Gellner,Ernest(1983) . Nations and Nationalism. Oxford: Blackwell Publishers

加藤節・亀嶋庸一・室井俊通・西崎文子訳『民族とナショナリズム』、岩波書店、2000年

第1章 定義

ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。(1頁)

人は一つの鼻と二つの耳とを持つように、ナショナリティを持たねばならない。それらのうちの個々のものを欠くことは考えられないわけではなく、実際に時折起ることではあるが、それは何らかの災難の結果起るものであり、またそれ自体が一種の災難なのである。こういったことはすべて当たり前のように思えるが、残念ながら真実ではない。しかし、これが、あまりにも明らかな真実であると思われるようになったこと自体が、ナショナリズムの問題の一つの側面、あるいはその中心を占めるものなのである。民族を持つことは、人間性の固有の属性ではないにもかかわらず、今ではそう思われるようになっているのである。

実際、民族は、国家と同じように偶然の産物であって、普遍的に必然的なものではない。民族や国家が、あらゆる時代にあらゆる状況の下で存在するわけではない。さらに、民族と国家とは、同じ偶然から生れるものでもない。(11頁)

近代的な意味での民族という規範的な概念が、それに先立つ国家の存在を前提としていなかったのではないかという問題は、さらに議論されなければならない。

だとすれば、偶然的でありながら、われわれの時代においては普遍的で規範的に見えるこの民族という概念とは、いったい何なのであろうか。以下の二つの定義について議論することは、それらが当座しのぎで一時的なものであるとしても、このとらどころのない民族という概念に焦点を合わせるのに役立つであろう。

① 二人の男は、もし、彼らが同じ文化を共有する場合に、そしてその場合にのみ、同じ民族に属する。その場合の文化が意味するのは、考え方・記号・連想・行動とコミュニケーションとの様式から成る一つのシステムである。

② 二人の男は、もし、彼らが同じ民族に属していると認知する場合に、そしてその場合にのみ、同じ民族に属する。換言するならば、民族は人間が作るのであって、民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感とによって作り出された人工物なのである。(例えば、ある領域の住人であるとか、ある言語を話す人々であるとかといった)単なる範疇に分けられた人々は、もし彼らが、共有するメンバーシップの故に、互いにある相互的な権利と義務とを持っていると固く認識するならば、その時、民族となる。ある範疇の人々を民族へと変えていくのは、お互いがそのような仲間であるという認知であって、何であれ、彼らをメンバー以外の人々から区別するような他の共通する属性ではないのである。

 一方は文化に、他方は意志に力点を置いた以上二つの定義は、それぞれ長所を持っており、どちらもナショナリズムを理解するのに真に重要な要素を取り出している。しかし、そのいずれもが十分ではない。第一の定義の前提にある規範的というよりは人類学的な意味での文化の定義は、周知の難点を含み、満足のいかないものである。この問題に接近するには、形式的に定義することをあまり試みることなしにこの言葉を使い、文化が何をなすのかを探っていくのが最良の途であろう。(12-13頁)

第2章 農耕社会における文化

人類史の中間の時代つまり農耕時代においては、読み書き能力は少数の者にしか所属していなかった。さらに読み書き能力を所有するのは一部の農耕社会だけである。またその能力を有する社会といえども、実際に読むことができるのはつねに社会の一部の人々であり、決して全ての人々ではない。(14頁)

<農耕―識字政治体における権力と文化>

典型的な農耕―識字政治体においては、支配階級は人口の中での少数者を形成し、彼らは圧倒的多数者である直接農耕従事者、つまり農民から厳格に分離されている。一般的に言って、彼らのイデオロギーは、諸階級の不平等性と支配層の隔たりの程度とを控えめに見せるよりも、むしろ誇張しようとする。この支配層は、さらにまたいくつかのより専門的な社会層に再分割される(戦士、祭司、聖職者、行政官、都市上上層市民など)。

水平的に成層化された少数者からなる頂点の下に、もう一つの世界がある。社会の平民層の横のつながりを断たれた小共同体からなる世界である。(16-17頁)

第3章 産業社会

<永続的成長の社会>

この新しい種類の社会的流動性の直接的な結果は、ある種の平等主義である。近代社会は、平等主義であるが故に流動的なのではない。流動的であるが故に平等主義的なのである。さらに、近代社会は望むと望まざるとにかかわらず流動的でなければならない。その理由は、経済成長に対する凄まじく癒しがたい渇きを満足させるために、そうあることが求められる点にある。(42頁)

<社会遺伝学>

 高性能のテクノロジーと持続的成長の期待とに基礎をおく社会が現れる。持続的成長に必要となるのは流動的分業と見知らぬ者の間での持続的で頻繁かつ精密なコミュニケーションとの両方である。そのコミュニケーションは明示的意味の共有を伴い、その意味は必要とあれば標準的な語法で書いて伝達される。多くの理由が収斂した結果、この社会は完全に族外教育社会でなければならなくなった。(57頁)

<普遍的高文化の時代>

産業社会の一般的かつ中心的な特徴として、普遍的な読み書き能力と高水準の計算・技術能力および全般的洗練が、それが機能するための必須条件となる。そして、その成員は流動的であり、かつそうでなければならず、ある活動から次の活動へ移る用意を常にしておかなければならない。そして、次の新しい活動と職業の手引書や仕様書とについていけるような全般的な訓練を積んでいなければならない。仕事を進めていく上で、彼らは数多くの他人と絶えずコミュニケーションを図らなければならず、しかも、その他人との間には事前の面識がないことも多いためコミュニケーションは明示的でなければならず、コンテクストに依存することはない。(59-60頁)

第4章 ナショナリズムの時代への移行

人類は、もはや後戻りできない形で産業社会に、その生産体系が累積的な科学とテクノロジーとに基づいている社会に縛られている。

われわれは、産業社会が利用できる選択肢の範囲を正確には理解していないが、産業社会に必ず付随するもののいくらかは理解している。ナショナリズムによって要求される文化的な同質性といったものは、それらのうちの一つである。

ナショナリズムが同質性を押しつけるというのは真実ではない。むしろ、客観的で不可避的な要請によって押しつけられる同質性がナショナリズムという形をとって表面に現れるのであるのである。

産業主義への移行の時代は、われわれのモデルによれば、必ずやナショナリズムの時代、動乱に満ちた再調整の時期たらざるをえない。

その後産業社会が世界の残りの部分を征服した時、地球規模の植民地化も、そしてまた、工業至上の波にのって前進してきたが結局はその独占権を失った国々による帝国の放棄も、決して平和裡の発展ではなかった。これらすべてのことが意味することは、現実の歴史において、ナショナリズムの帰結は産業主義のもたらす他の結果と融合しやすいということである。ナショナリズムは確かに産業社会の組織の一帰結ではあるが、それはこの新しい社会形態が強要するただ一つの帰結というわけではない。したがって、産業社会の他の発展からナショナリズムを解きほぐすことが必要なのである。(66-68頁)

<ナショナリズムの弱さについてのノート>

ナショナリズムを理解する手掛かりは、少なくともその強さとともにその弱さにある。

ナショナリズムとは、文化と政治体とを一致させ、文化にその自前の政治的屋根を、しかも一つの文化に一つだけの屋根を与えようと努めることである。(73頁)

一つの有効なナショナリズムごとにn個の潜在的ナショナリズムが存在する。それは、農耕世界から継承してきた共有文化か、何か他の絆によって定義される集団である。

ナショナリズムが、意図的な文化的「権力欲」から同質性を押しつけるというのは事実ではない。その逆で、ナショナリズムに反映されているのが、同質性への客観的必要性なのである。(76-77頁)

しかし、ナショナリズムは、古い、隠れた、休眠状態の力を目覚めさせることではない。実際に、そのように現れることがあるとしてもである。ナショナリズムは実際には社会組織の新しい形態の結果であり、それは、深く内在化され、教育に依存し、国家の保護を受ける高文化に基礎を置いている。ナショナリズムは先在する諸文化の一部を利用し、その過程で一般的にそれらを変形することはある。しかし、それらの文化全部を利用することはできない。前代の文化は多すぎる。文化を支える活力に満ちたより高度な近代国家というものは、ある一定の最小規模以下にはなれない。

ナショナリズムは、時に先在している古い文化を取り上げて、それらを民族に変えて行くこともあるし、時にそれらを作り上げることもあるし、しばしば先在文化を完全に破壊することもある。

しかし、われわれは神話を受け入れてはならない。民族は事物の本性に刻み込まれているものでもないし、自然の種という教義の政治版を構成しているのでもない。また、民族国家はエスニック・グループや文化集団の究極の明白なる運命でもない。

しかし、ナショナリズムとは、これらの神話的で、自然かつ所与と思われる単位を目覚めさせ、主張することではない。反対に、ナショナリズムとは確かにその原料としてナショナリズム以前の世界に由来する文化的、歴史的、そしてその他の遺産を利用しはするが、今日優勢になりつつある条件に適した新しい単位の結晶化なのである。この力、つまり新たな分業に呼応する原理の上に打ち立てられた新しい単位への推進力は、近代世界における唯一の力でもないし、抵抗できない力でもないが、大変力強い。(81-84頁)

<野生文化と園芸文化>

高文化は一般的には政治単位の範囲を定めることはなかったし、農耕時代にはそうできるはずもなかった十分な理由が存在したのである。 産業時代においては、これらすべてが変わる。高文化はまったく新たな意味で支配的となる。(85-86頁)

産業時代は、先立つ時代の政治単位と文化―高文化と低文化―とを継承した。政治単位と文化とが、すべて突然単一のものに融合すべき理由はなかった。逆に、そうなるべきではなかった理由は十分にあった。産業主義、別言すれば同質的な呼吸タンクを絶対不可欠なものとするような生産または分業のタイプは、世界のあらゆる地域に同時かつ同じ仕方で到着したのでもなかった。その到着のタイミングが違っていたことが、じつに効果的に人類を競合する集団に分割することになった。様々な共同体における産業主義の到着時期の違いが深刻となったのは、それらの共同体が、農耕世界の残したいくつかの文化的、遺伝的差異などを利用しえた場合である。「発展」の日付確定は、もしそれが農耕時代から継承した文化的差異を捕えることができ、それらを自らの印として利用できるなら、決定的な政治的識別符号となるからである(88-89頁)

第5章 民族とは何か

集団を形成し維持する一般的動因もしくは触媒要因として、次の二つが明らかに決定的である。すなわち、一つは意志、自発的な支持や一体感、忠誠、連帯であり、他の一つは恐怖、威圧、強制である。これら二つの可能性は、一種のスペクトルの両極をなしている。

民族を、自分たちの意志の力で共同体として存続できる集団と定義するならば、われわれが海に投げ入れる定義の網は、あまりにも多くのものを捕獲してしまうであろう。

暗黙の自己同一化は、民族より大きな、あるいは小さな集団、複数の民族にまたがる集団、水平的あるいは他の仕方で境界づけられる集団など、あらゆる種類の集団づくりのために機能してきた。要するに、たとえ(国家の理想主義的定義を言い換えて)意志が民族の基礎であると言ったとしても、それは同時に他の多くのものの基礎でもあるため、このようなやり方では結局、民族を定義することはとてもできないのである。

共有文化による民族のどのような定義も、同様に、あまりにも多くのものを捕獲してしまうもう一つの網である。

広く普及した高文化(標準化され、読み書き能力と教育とに基礎づけられたコミュニケーションのシステム)の確立、すなわち世界中で速度を急激に増しているこの過程のために、民族性は共有文化によって定義できるということが現代の前提にあまりにも深く浸っている誰の目にももっともらしく見えてしまう。(90-93頁)

(意志と文化という)民族性の定義を目指す明らかに有望な二つの途が、以上のような説得力ある理由によって閉ざされてしまうのであれば、他の途はあるだろうか。真に大きな、しかし正当なパラドックスとは次のことである。すなわち、民族はナショナリズムの時代によってのみ定義されるものであって、あるいは期待されているかもしれない他の仕方では定義できないということである。「ナショナリズムの時代」が、あれとこれ、あるいはその他の民族の覚醒と政治的自己主張との単なる総和にすぎないというのは、真実ではない。むしろ、一般的な社会的条件が、エリートの少数派にだけではなく全人口に普及する標準化され同質的で中央集権的に支えられた高文化を促進する時、教育を通じて容認された輪郭のはっきりした統一的文化が、人々が進んで、時には熱烈に一体化したがるほとんど唯一の単位を構成するという状況が生まれるのである。

こうした条件の下で、もっともこうした条件の下でのみであるが、民族は意志と文化との双方によって確かに定義されうるし、またこれら双方と政治的単位との一致によって確かに定義されうるのである。しかし、このような条件は人間の状況それ自体を定義するものではなく、単にその産業時代的変種を定義するものにすぎないのである。(93-95頁)

民族を生みだすのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかしナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも多くの場合それらを根本的に変造してしまう。

ナショナリズムが利用する文化的断片や破片は、たいていは恣意的な歴史的作り物である。

他方で、ナショナリズムの原理それ自体については、その時々の化身のためにたまたま取った姿とは反対に、少しも偶発的でも偶然的でもないというようには決してみなされないのである。(95頁)

ナショナリズムによって行われる基本的な欺瞞と自己欺瞞とは次のようなことである。ナショナリズムは、その本質において、以前には複数の低文化が人口の大多数の、ある場合にはそのすべての人々の生活を支配していた社会に、一つの高文化をあまねく行き渡らせるのである。それは、かなりの程度精密で官僚的かつ科学技術的なコミュニケーションの必要に応じて成文化され、学校で伝達され、学士院の指導の下に置かれた慣用句が広く普及することを意味している。それは匿名的で非人格的な社会の確立であり、この社会は、極小集団がそれぞれ土地ごとに特有な形で再生産する民衆文化によって支えられた地域の諸集団からなるかつての複雑な構造に代わって、もっぱら上記の類の共有文化によって結合されている相互に互換可能で原子化された諸個人から成り立っている。これこそが本当に起きていることである。

しかし、こうしたことは、ナショナリズムが断言していることの、そしてナショナリストたちが熱狂的に信じていることのまさに反対である。ナショナリズムは、通常、一般に民衆文化と思われているものの名において征服するからである。その象徴記号は、農民や〈ナロード〉や〈フォルク〉の健康的で素朴で生き生きとした生活から引き出されてくる。

ナショナリズムは、もし成功すれば異国の高文化を排除しはするが、しかしその場合にそれを古い地域的な低文化に置き換えるわけではない。ナショナリズムが復活させたり捏造したりするものは、自分の地域的な(読み書き能力に基づき、専門家によって伝えられる)高文化だからである。(97-98頁)

<真のナショナリズムの歩みは決して順調ではなかった>

産業世界が隔離された文化という生育水槽を伴って登場した時に新しい単位{民族}の出現を決定する二つの重要な核分裂の原理のうちの一つについて述べてきた。それは、コミュニケーションに対する障壁の原理、かつての前産業時代の文化に基づいた障壁の原理と呼ぶことができよう。それは産業化の初期に特殊な力を発揮する。同じくらい重要な他のもう一つの原理は、社会的エントロピー抑制の原理と呼ぶことができる。(106頁)

第6章 産業社会における社会的エントロピーと平等

産業化は流動的で文化的に同質的な社会を生じさせ、その社会は、以前の安定的で階層化され教条的で絶対論的な農耕社会には欠けていたような、平等主義への期待と渇望とを持つ。同時に、産業社会は、その初期の段階で、きわめて厳しい、苦痛に満ちた、きわだった不平等を生じさせる。しかも、この不平等は、大きな社会不安を伴うが故に、そして、産業化の初期の段階では、不利な立場に置かれた人々が相対的のみならず絶対的な苦難を蒙りがちであるが故に、一層苦痛に満ちたものとなる。そのような状況――平等主義的期待、不平等主義的現実、苦難、そして願望されてはいるが未だ実現されていない文化的同質性――では、潜在的な政治的緊張が深刻なものとなり、この緊張が支配者と被支配者、特権的な人々と非特権的な人々とを分ける適当な象徴や識別マークをつかむことができれば、それは現実化してしまうのである。(124-125頁)